kinakolayla’s diary

雑記。コンセプト決まらず。

櫻子さんの足下には死体が埋まっている

ドラマの脚本構成というものに興味があって調査していた。

 

母が録画していたドラマの各一話ずつ見て、どれもイマイチ。

 

構成を勉強しているので、もちろんシーンの埋め込み方など、素晴らしいと感じる。何気なく流して見ているところで、興味深い効果が仕組まれていることに改めて気づくとおもしろいなとは思う。ドラマの脚本家は、視聴者に話の流れがわかりやすいように、ゼロからシーンを構成していく。その技術は素晴らしい。

 

だが、しかし、だ。

 

どうしてもドラマティカル コンテキストと呼ばれる部分で、頭をかしげたくなってしまうのである。とにかく、中身が薄っぺらい。薄っぺらすぎて、時間が無駄になってしまったようにすら感じる。

 

そんな中で、これは見てみようと第二話に続き、第三話に続いたのち、1クールすべてを見て、感嘆し、もう一度見ようとすら思ったのがコレ。

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エブリスタで小説ができ、アニメができ、ドラマ化と至ったのだが、調べてみると原作と内容がほとんど変わってしまっているそうだ。高校生だった正太郎は、博物館職員になっているし、櫻子さんの年齢まで変更されているようだ。

(それにしても観月ありさの顔が変わりすぎてやしないか?)

 

それに対して反発している原作ファンも多いようである。

 

しかし、だ。ドラマは美しかった。メタファーも、伏線の置き方も、敵キャラ設定の置き方も。冒頭で与えられた葛藤に対して、結論がラストにでるのだが、

 

あれは釈迦の説法

 

確信にいたったのが、まさに最終回。あのラストシーンは釈迦が入滅時に、阿羅漢に対して霊能力で説法された内容と同じである。敵キャラである青葉は、まさに仏教でいうところの「マーラ」の訴えそのものである。

 

つまり、「桜子さんの足下には死体が埋まっている」という作品はエクソシスト作品である。エクソシスト作品は、ディズニーシリーズも完璧にそうだと言える。「桜子さんの足下には死体が埋まっている」は、ディズニーよりも、各話ごとの説法内容がコンパクトすぎて感情移入しづらい。

 

ディズニー作品は主人公の人物像や感情をシーンで丁寧に描いている。櫻子さんは各話を通して、主要キャラクターの人物像や葛藤を丁寧にあぶりだしている。

 

それは、映画とドラマという表現手法による作品の性質でもある。櫻子さん、は、

 

連続ドラマ、だというだけあって、サイドストーリーともに、釈迦の説法が散弾銃のように巻き散らかされている。

 

なぜ、その人物がそのような行動をおこしてしまったかという抒情部分がまるでなく、その人物の生い立ちや状況がたんたんと語られる。女子高生と風俗店店員の交際も、書きようによっちゃあ、グロエロと表現できると思うが、すべてカットしてある。どうして、そんな人間と交際したんだ、といった糾弾するようなシーンはほぼない。

 

私自身の青臭い過去もそうだが、女性というものは、男の甘い囁きに失敗していることがあると思う。認めてもらえなかった悔しさ、愛してもらえなかった悲しみ、大事にされていないさみしさを男性の目的に利用された女性は少なくないはずだ。

 

それに気づかないで、それをなんとも思わないのが大人の女性だという幻想を追いかけて、どんどん無意識に、自分を傷つけていく。そして、自分の心を失っていく。他人にそんなことを求めても、なにかしてくれるわけじゃないでしょ?とばかりに。

 

それについてはほとんど描かれず、たんたんと希望が描かれる。希望をつかみきれない女子高生には、元教師が一喝。

 

「男はお前を利用したんだ」

物事の本質をえぐるってとっても大事だと思う。説教臭い番組だというひともネットで見かけたけれど、別に説教してるわけじゃないだろう。本当のこと、じゃないか。

 

本当のことを言うと怒るひとは、私の周りにもたくさんいる。なぜ、怒るのか分からなかったけれど、最近はよくわかる。

 

怒るひとは、自分の心が傷ついているっていうことを認めたくない人か、自分の心が傷ついていることを把握し近寄ってくるなと警告をしている人。

 

だいたい、その傷つきは、原体験が幼少期にあって、本人も探せないところにあるから、自分なりの価値観として他者と衝突するようにできている。そして、それが人間。

 

傷つきの原因を知り、ただしい善悪の判断の目をもち、自分を理解し、適切な改善する道筋を発見し、ゆるすこと

 

善悪の判断は、お釈迦様が説いた八正道であるし、ゆるしはキリストだったり。この生きることのなかに智慧を磨く勇気と不動心を訴えたのはイスラム教。宗教は、本当は心の指針みたいなもので、現在にあてはまるものに関しては普遍的な教えだと思う。けど、当時の人間にわかりやすく話された比喩をそのまま現代が受け取ったら、そらー、おかしなことになるわなっていう解釈は私は持っている。

 

それらがわかってて、考えているひともたくさんいる。そういうひとには桜子さんのお話はきっと感嘆だと思う。なぜなら、説教臭いからだ。

 

 

 

4.ドラマ【関東地区】

番組名 放送局 放送日 放送開始-分数 番組平均
世帯視聴率(%)
連続テレビ小説ひよっこ NHK総合 '17/06/07(水) 8:00 - 15 20.0
木曜ドラマ・緊急取調室 テレビ朝日 '17/06/08(木) 21:00 - 54 13.8
日曜劇場・小さな巨人 TBS '17/06/11(日) 21:00 - 54 13.7
火曜ドラマ・あなたのことはそれほど TBS '17/06/06(火) 22:00 - 54 13.5
木曜ミステリー・警視庁・捜査一課長 テレビ朝日 '17/06/08(木) 20:00 - 54 13.2
おんな城主直虎 NHK総合 '17/06/11(日) 20:00 - 45 12.3
警視庁捜査一課9係・最終回 テレビ朝日 '17/06/07(水) 21:00 - 54 10.4
金曜ドラマ・リバース TBS '17/06/09(金) 22:00 - 54 10.4
CRISIS公安機動捜査隊特捜班 フジテレビ '17/06/06(火) 21:00 - 54 10.3
月曜名作劇場・警視庁機動捜査隊216・7悪意の果て TBS '17/06/05(月) 20:00 - 110 9.7
ところで、その桜子さんの視聴率は、というとランキングに入っていない。これはどういうことかと考える前に、ドラマティカルコンテキストで私がアウトをだした作品がこの中にある。キャストがもったいないとさえ思っていた。
そこでわたし調べで周囲に聞いてみた。何がおもしろかったのか。
「いのっちがよかったわぁ」
確かに、俳優の演技が最高だと思う。だが、しかし、こんな安易な殺人をひとは犯すものか?そして、その殺人事件にまつわった心の葛藤はそんな程度の着地点でいいのか?甚だ疑問である。
ドラマとは、キャストの演技を見るもの、程度になっているのか?
私の父も帰宅するとテレビをつける。テレビの内容を見ていると、なぜそれがおもしろいのか、私にはまるで分らない。観察していると、テレビの内容を見ているというよりは、そこにいる存在理由をふらっと置いているようにさえ、見える。なので、考えさせる何かよりも、CMのように流れていく内容のテレビ番組のほうが安全なのだ。考えることをやめ暇つぶししたいのに、向き合いたくないことを考えざるを得ないように刺激してくるものは、自らの敵である。
櫻子さんの事件のひとつ。介護に疲れただろう老婆の死亡理由が、自殺か事故死か。ネタバレになるが、夫を介護していた妻は、生きる覚悟をもち自らを鼓舞するために、夫との思い出の場所で朝日を見ていた、という箇所。介護問題が持ち上がる中で、きれいごととは言え、
ひとりではない、ささえてくれる人がいるから生きていける、勇気をもてる
お前はそれを、しっかりと受け継いでいるようだな
という幸福に過ごせるための指針のようなものが、セリフに入っている。自らの不満ややるせなさで疲れ切って、愚痴を言うことをストレス発散してどうにかやり過ごしている人間にとっては、そう思えないものをテレビでドンっと、幸福であるための結論を突き付けられてみたら、無言で見るしかないだろう。
最近では、ネット情報を発信しているテレビ番組もあるそうだ。情報メディアは、テレビからインターネットへと移行している。インターネットを使わない年齢層が消滅すれば、テレビの社会的役割は失われるだろう。ラジオでさえ、インターネットラジオがある。地方局は、ローカルネタの発信基地として、おそらくは有益な機能を果たすので残るだろう。
千葉真一の息子がアメリカではなくて日本に活動の主体を置いた理由の一つに、興味深いものがあった。アメリカでは年輩俳優のにじみでるオーラが評価されるが、日本では10代20代の若手俳優がメジャーシーンを占めているので、自分はそこで修行をしようと思ったというのだ。
日本のエンターテイメントが、若者を起用した内容物に傾倒しているのは確かだろう。ジャニーズやAKBといったアイドルが、テレビ界を占めている。(海外のテレビ事情は知らないが)
それを垂れ流しているテレビではあるが、それ自体に日本人が飽きたらそれまでである。日本のエンターテイメント界がどういう方向性に向かっていくのか、まるでわからないが。物語、に関しては、私のなかで法則がある。

メジャーになると王道ストーリーになる

東京グールだってそうだ。東京グールの前身になっているだろうpenismanは、東京グールの作者がweb漫画でまだ公開しているので検索したら見つかるはず。発想はそこから来ていて、東京グールで解決できなかったテーマを、東京グールreで再考している。penismanはただのホラーギャグである。penismanがうまかったのは、そこに分かりやすいドラマがあることだ。
東京グールの構想システムは、海外ドラマのheroと同じところがある。親のまき散らした問題をどう子どもが解決していくか。そこに、人間と超人との調和を見事に表現していなかったら、私法則で言えば、東京グールは未だインディーズ作品ということになる。
pokemonの初期作品もそうだ。わりと無駄があって人間くさいいびつなセリフもあったのだが、最近では愛と平和と勇気、友情などを謳いきっている。初期映画を見て、なんだかなぁと思っていたが脚本家が変わったのかもしれないが、そうではないのだろうなとも思う。有名税みたいなものが発生するのか、発信者としての責任がでてくるのか。
私は後者だと思っている。
どんなアンダーグラウンド作品でも、読み手が増えるにしたがって、王道ストーリーになってくる様子は、私が観察するテーゼでもある。胎界王でさえ、そうだ。今どうなっているのか分からないが、グロい作品なのにもかかわらず、そこに葛藤があり、そしてカタルシスがある以上は、どうしても王道にならざるを得ないのである。
 その丁寧な葛藤とカタルシスの表現なく、ボンボンっと結論をだしてくるのが、「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」だ。
みごとだねぇ。。。
 だがしかし、小説作品とは、主人公の人生を通して、何かを知らせるものだ。獣の奏者、エリンも、自らの人生を通して、多くを知らせる。その情報は多すぎる。どんな人生を歩み、どんな結論を出したかを、人生で表現するものが人間である。本来、物語とはそういうものだ。いや、ちがうのか。私にはわからない。そういうものしか読んだことがないのかもしれない。
わかるのは、「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」は、何が善で、何が悪なのかをはっきり明示するものであり、私がこのブログで発信するものも、おそらくその類になるのだろうと思われる。